LOGINカレーを皿に盛る。ご飯も。サラダも添えた。
テーブルに運ぶと、京介は椅子に座った。鈴音も向かいに座った。
京介は一口食べた。鈴音は、京介の口が動くのを見ていた。
「美味い」
京介は言った。昨日と同じ言葉。けれど、昨日よりずっと声が近かった。
「辛さは、大丈夫ですか」
「ああ。ちょうどいい」
京介は黙って食べた。鈴音も食べた。
今日のカレーは、自分で作ったからだろうか.
それとも京介が早く帰ってきたからだろうか、とても美味しかった。
「鈴音」
京介が名前を呼んだ。鈴音は顔を上げた。
「家事は君の仕事ではない」
その言葉は、静かだ
「鈴音」京介の声。低くて静かで、いつもと同じ。鈴音は答えなかった。答える言葉が見つからなかった。「出かけるなら、車を出す」鈴音はドアを見つめた。ドアの向こうに京介が立っている。その距離は、ドア一枚分。開ければ触れられる。けれど開けられなかった。開けたら、また同じことを言われる。「一人では行くな」と。「何も持たなくていい」と。そうして鈴音の世界は、また少しだけ狭くなる。「…行きません」鈴音は言った。声は思ったより静かだった。「行かないのか」「行く場所がないので」短い沈黙。京介は何も言わなかった。けれど、ドアの向こうで息を呑む気配がした。ほんの一瞬。けれど鈴音にはわかった。京介は、今、何かを感じている。罪悪感か安堵か、それとも別の何か。鈴音にはわからなかった。わかるはずもなかった。京介はいつも、何も見せないから。「朝食は?」京介が言った。「いりません」「何か食べろ」「食欲がないので」また、沈黙。鈴音はベッドの端に座り直した。ドアの向こうで、京介がまだ立っている気配がした。動かない。去らない。けれど、入っても来ない。二人の間にはドア一枚分の距離。それ以上でも、それ以下でもない。 やがて、足音が遠ざかった。リビングへ戻っていく音。鈴音は一人になった。部屋の中は静かだった。時計の針が動く音だけが、規則正しく響いている。
寝室のドアを閉めてから、鈴音はベッドの端に座り込んだ。着替えは済んでいた。昨日選んだワンピースより少しだけ明るい色のブラウスに、シンプルなスカート。髪も整えた。化粧もした。靴も履ける状態で揃えてある。けれど、立ち上がれなかった。バッグはリビングに置いてきた。スマートフォンも財布も、その中だ。京介が「何も持たなくていい」と言った。その言葉に従ったわけではなかった。ただ、持っていくものがなかった。持っていけなかった。財布の中身を思い出す。千円札が数枚。カードは一枚も持っていない。クレジットカードも、キャッシュカードも京介が作ったものはすべて彼の管理下にある。鈴音名義のものなど何もない。実家に帰るにも、電車賃が要る。実家までの距離を思う。遠い。電車に乗れば数時間。けれどその数時間分の金が、今の鈴音にはなかった。行く場所もなかった。美咲のところへ行く? 昨日結婚式だったばかりだ。新婚の家に転がり込むわけにはいかない。それに、何と言うのだろう。「家を出たい」と? 理由を聞かれたら、何と答える。「愛人契約が嫌になった」と? そんなこと、言えるはずがない。妹のところへ? 実家に帰る? それもできなかった。鈴音は家族に、東京で普通に働いていると言ってある。帰れば、説明しなければならない。仕事はどうしたのか。住む場所はどうしたのか。なぜ急に帰ってきたのか。すべてを話す勇気は、鈴音にはなかった。借金のカタに愛人になったこと。それを家族が知ったら、どう思うだろう。妹は泣くだろう。母は病状が悪化するかもしれない。それだけは、絶対に避けたかった。友達のところへ? 東京で友達と言える人は、もういない。高校を卒業してから地元を
「京介さん…」京介は答えなかった。ただ名刺を手の中で握りつぶした。ぐしゃりという小さな音がした。鈴音はその音を、自分の胸の奥で聞いた気がした。「これからは、バッグを置いていけ」京介は言った。「出かけるときは、何も持たなくていい。必要なものは俺が用意する」「それって、監視ですか」「違う」「じゃあ何なんですか!」声が大きくなった。京介は動じなかった。ただ鈴音を見ている。その目は昨夜と同じだった。何かを必死に隠している目。けれど今朝はその奥に別のものもあった。鈴音の知らない冷たい何か。京介は何も言わなかった。鈴音はテーブルの上のコーヒーカップを見た。冷めたコーヒー。湯気はもうどこにもない。昨夜京介が淹れてくれたものだ。いつもと同じ味のはずだった。けれど今朝は飲む気になれなかった。「佐久間くんは、高校の同級生です。それだけです。何もないです。京介さんが想像してるようなこと、何も」「わかっている」「わかってるなら、どうして」「お前が、俺の知らない世界にいることが許せない」京介の声は、静かだった。けれどその静けさの中に鈴音は初めて彼の弱さのようなものを感じた。この人は、鈴音の知らないところで鈴音が誰かと笑っていることが怖いのだ。その事実に、鈴音は少しだけ息を呑んだ。京介が怖がっている。この冷たい人が。「私出かけます」鈴音は言った。京介の眉が、わずかに動いた。「どこへ」「外。一人で」「一人では行くな」「京介さんに関係ないです」
朝の光がカーテンの隙間から差し込む頃、鈴音は目を覚ました。まぶたが重い。昨夜泣いた名残で、頬が少しだけ張っている。隣を見る。京介の姿はなかった。シーツは冷えている。ずいぶん前から起きていたのだろう。鈴音は身体を起こした。喉が渇いていた。水を飲もうとリビングへ向かう。廊下を歩く足音がやけに大きく聞こえた。リビングの扉を開ける。京介はソファに座っていた。スーツではなく部屋着のままだ。昨夜から着替えていない。テレビは消えている。テーブルの上には、コーヒーカップが二つ。一つは飲みかけでもう一つは手つかずだった。鈴音の分だ。いつもなら、鈴音が起きる時間に合わせて淹れてくれている。けれど今日は違った。カップの湯気はもう立っていない。京介は鈴音を見た。その顔には何の表情もなかった。怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。ただ、何もない。感情を全部どこかに置いてきたみたいな、平らな顔だった。鈴音はその顔を見た瞬間背筋がすっと冷たくなるのを感じた。昨夜の自分たちのやりとりが、まだ部屋の中に沈んでいる。けれどそれだけではない。何かもっと別のものが、京介の中に積もっている。「おはようございます…」鈴音は恐る恐る言った。京介は答えなかった。ただじっと鈴音を見ている。「どうか……したんですか」京介の手が、テーブルの上に伸びた。何かを持ち上げる。白い、小さな紙片だった。名刺。鈴音は息を呑んだ。見覚えがあった。昨日、式場で受け取った。佐久間隆。高校時代の同級生だ。美咲の結婚式で久しぶりに会った。向こうは鈴音を見つけるなり懐か
寝室の灯りを消してから、三十分ほどが経っていた。京介は静かに腕を抜いた。鈴音は微動だにしない。泣き疲れて眠ったのだろう。まぶたは少し腫れて、呼吸は浅く規則的だった。京介はベッドサイドに腰を下ろし、しばらくその寝顔を見ていた。それから立ち上がった。足音を殺してリビングへ戻る。鈴音のバッグはソファの脇に置かれたままだった。ファスナーは開いていた。京介はしばらくそのバッグを見つめていた。指が伸びて、それから止まる。三秒。五秒。結局彼はバッグを開けた。スマートフォンと財布を取り出した。京介はスマートフォンの画面を点けた。ロックはかかっていない。鈴音はいつもロックをかけない。京介が教えたわけではなかったが、彼女は彼に何も隠していないということを無意識に示していた。そのことが今、京介の胸を冷たく締め付ける。写真フォルダを開いた。今日の日付。結婚式場の外観。白いドレスの女性。集合写真が何枚か。鈴音は端の方に立っている。笑っている。けれど目が笑っていない。その写真を指でゆっくりとめくっていく。男の影はない。新郎以外に、鈴音の隣に立つ男はいない。京介は知らず知らずのうちに息を吐いた。安堵だった。安堵してから、自分が安堵したことに嫌悪した。財布を開く。千円札が数枚。レシート。それから、カード類の間に挟まれた一枚の紙片が指先に引っかかった。名刺だった。白い紙に黒い文字。刷り込みは上質だが飾り気がない。「佐久間隆」下に小さく、会社名と役職と電話番号。見覚えのある会社名だった。京介の取引先の、そのまた関連企業。名前は知らない。京介は名刺を摘まみ上げた。リビングの灯りにかざす。紙の繊維が光を透かす。彼はしばらくそれを動かさなかった。鈴音が、いつこの名刺を受け取ったのか。どこで。誰
「ご祝儀、ありがとうございました」「気にするな」京介の手が、鈴音の頬に触れた。冷たい。今日も冷たい。鈴音はその手から少しだけ顔を背けた。京介の手が止まった。「どうした」「…何でもないです」「鈴音」名前を呼ばれて、鈴音は俯いた。涙が出そうだった。理由は自分でもわかっていた。今日、一日中外の世界で生きてみて自分がどれだけ「隠されている」存在なのかを思い知った。同級生たちの前で嘘をつき、住所を偽り、彼氏はいないと言った。全部京介のためだった。京介の世界を守るためだった。けれど鈴音自身は、誰にも守られていない。「京介さんにとって、私は…」言葉が、喉の奥で詰まった。「隠すべき存在…なんですか?」京介は何も言わなかった。沈黙が部屋の中にゆっくりと広がっていく。鈴音は顔を上げた。京介の目が、まっすぐに鈴音を見ていた。いつもの冷たい目ではない。けれど優しい目でもなかった。何かを必死に隠している目だった。「そうだ」京介は答えた。短く、はっきりと。鈴音の胸の奥で、何かが静かに音を立てて割れた。「お前は、俺の隠し事だ。俺が外の世界で何をしていようと、お前だけは汚したくない。だから隠す。だから誰にも話すなと言う。それは、お前を守るためだ」「私、京介さんのこと何も知らないまま、ここにいるんですよ。